日・中・印のブレンド霊魂観?

「日本人の霊魂観は、大陸の霊魂観の影響を強く受けて、日・中・印のブレンド霊魂観となっています。」(ひろさちや「お墓はいらない」)


 私は、霊魂なんて、ましてや神様や阿彌陀佛などの仏さん自体信じていませんが、先祖祭祀(供養?)は行っています。
 といっても仏壇や納骨堂の世話程度の簡易なものですが、ただ、盆と正月や爺さん婆さんの命日には浄土真宗のお寺さんにお経をあげてもらっています。
 なんで仏教?という疑問には前回も述べましたが、ほかに良い方法を知らないからです。


 ところで、葬式の目的の第二に「魂の処理」とありましたが、私が特別なだけで、普通の日本人であれば霊魂の存在を信じるのが一般的なのだろうと思います。
 では、霊魂とは?


 日本人は、いつの頃からかひとつの霊魂を、荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)に分けて考えていた、とのこと。
 荒御魂は、死んだばかりの霊魂のことで、荒々しい魂という意味。この荒ぶる魂も時間を経ると和やかに落ち着いてくるので、名前も和御魂に変わる、と。
 この荒御魂を「ホトケ」、和御魂を「カミ」と呼んでいたそうだ。


 ホトケ(荒御魂)は、現世に未練を残して荒れ狂っているので「たたる(祟る)」と怖れられ、その家の者には死穢(しえ、死のたたり)がついている、とみなされていたそうな。
 死穢がついているのは四十九日くらいまでで、その間は村人と付き合ってはいけないことになっていた。これが「忌中(きちゅう)」。
 「忌」は死穢がついているから強制的に隔離することを意味し、一方「喪中(もちゅう)」の「喪」は、自発的に自分勝手に関係を断つ行為を指すとのこと。
 「喪中に付き年賀欠礼」などはその例。「生涯再婚しない」というのも喪に服すの意。


 ところで、死者がたたると考えられるようになったのはいつ頃からだろうか。


 青森県の三内丸山遺跡など縄文時代の前期遺跡では、墓地は集落の入り口に整然と築かれており、それが後期の遺跡になると集落の中心(広場)に築かれていくそうです。
 それは、「祖先の霊に護られて一緒に暮らす」「その土地が先祖代々の土地であることを示す」あるいは「死者を愛し、血統・財産・名誉などを引き継ぐ者が墓を作り、死者を偲びながら供養を継続することにより、それらの権利を正当に継承することを確認した」(岡村道雄「日本の歴史01 縄文の生活誌」(講談社学術文庫、2012年)などと考えられているようです。


 この縄文時代は、およそ1万年余り続いており、現在の私たちには想像できないほどの悠久の時が流れていたわけです。西暦2022年なんてその5分の1にも及びません。
 その間、人々は死者を尊び、祖先の霊を身近に感じながら日々の生活を営んでいたわけです。


 このような、日本人の自然発生的な霊魂観は、弥生時代から古墳時代にかけての権力者による巨大な墓の造営へとつながっていくこととなるのですが、不幸なことに、仏教伝来とともに死者(霊魂)は忌み嫌らわれる存在となってしまったようです。


 仏教伝来とともに権力者の先祖祭祀は、巨大墳墓造営から寺院の創建(氏寺、菩提寺)へと変わっていきます。
 日本最古の寺院は、飛鳥時代に建てられた飛鳥寺(あすかでら)で、587年に蘇我馬子(同じ飛鳥の石舞台古墳の被葬者と推定されている)の発願によるそうです。
 この蘇我馬子は、渡来系一族蘇我氏の長で、外来の仏教を積極的に日本に取り入れようとします。そして、日本古来の神道を重んじる物部守屋と対立し、厩戸皇子(聖徳太子)と手を組み物部氏を滅ぼしてしまいます(丁未の乱)。


 では、庶民の先祖祭祀は?というと、「庶民の間では死体遺棄や風葬が一般的であったと考えられている」(松尾剛次『葬式仏教の誕生-中世の仏教革命-』平凡社新書、2011年)そうで、このような有様を何とかしないといけない、ということで誕生したのが葬式仏教、だそうです。


 以上のような歴史や事件を経て、日本人の霊魂観も、次第に「日・中・印のブレンド霊魂観」へと変わっていくことになったのだ、と思っています。


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